タケノコ [2010.5.16]

土曜日、会社の同僚からタケノコをもらった。
朝、取れたばかりのタケノコらしい。
その同僚の実家は岐阜にあり、家の近くに「山」をもっているので、毎年タケノコが取れるとのこと。生まれも育ちも大都会名古屋である僕としては、「山」を所有しているとの発言が少しカルチャーショックだった。

 持ってきてくれた箱にはいろいろな大きさのタケノコが入っている。聞けば小さいものの方が美味しいらしい。というのも、なんとタケノコには「オス」と「メス」があり、まだ小さい状態のものが「メス」と呼ばれやわらかくて美味しいのだそうだ。ならば、その小さいメスのタケノコをもらいたい。「一人暮らしには大きなタケノコをもらってもゆでる鍋がないナ」などと理由づけしながら、ちゃっかりと一番小さいものをいただいた。
しかしこの、一番小さいメス筍を持ち帰ってやろうという下心が、実は間違いであった。

 日曜日。昨日もらったタケノコをあらためて眺めてみると、実にいい。三角錐の形も粋だし、上品なブラウンの色合いと表面のふわっとした毛並みも高級感がある。ザ・山の幸というような風格だ。やはりここは煮物をつくろうと思い立つ。

 しかしタケノコの皮をむいて驚いた。野菜にしては毛並みに高級感があるナと思いながら皮をむくと、中からまた高級な毛皮に包まれたタケノコ。そしてその皮をむくと、またしても毛皮のタケノコ。で、また中には毛皮。毛皮、毛皮、毛皮。むいても、むいても、さらに小さな「毛皮」ばかりが出てきて、肝心の「中身」が姿を現さないのだ。これではまるで、人形の中から小さな人形が出てきて、その中からもっと小さな人形が出てきて…を繰り返すというロシアのお土産マトリョーシカと同じではないか。キッチンで一人、コントをやっているかのようだった。

 結局、最後まで「中身」は出てこなかった。台所の流しには、たくさんの毛皮だけが積まれている。それだけである。つまり、小さなタケノコはすべて毛皮だったのだ。僕の下心、期待していた“やわらかなメス”はどこにもいなかった。これはなかなか切ないものがあった。

 だが、気を取り直して考えてみると、このままではタケノコをくれた同僚に味の感想を伝えられない。よく見れば、幸い、タケノコの根元の部分が、食べられそうだ。その食べられそうな部分を包丁で切り出すと、ほんの数切れだけだが、タケノコ片が取れた。

これで煮物が出来そうだ。鍋で煮る。それにしても、鍋の中でたったの数切れのタケノコ片が煮られる光景は、なかなかシュールだな。料理というより、なにかの実験をやっているようだ。苦笑しながらも、味付け。一度ゆで汁を変え、醤油、ほんだしを入れる。味見したら、天つゆみたいな味だ。うーん、微妙。棚の中に以前もらった料理酒を見つけ入れる。これで格段に美味しくなった。完成。

 小皿に盛り、いただいた。タケノコの見事な食感。美味であった。一つの食材から、たったの数切れしか取れないものをいただくという贅沢。カレーを除けば、生まれて初めてつくった「煮物」料理だから、まあこんなもんだ。
 明日は月曜日。タケノコをくれた会社の同僚に、お礼を言おう。